研究回想3.研究の道しるべ、持続した発見と社会貢献

 教育・研究者として、その業績数は学術論文、著書、国際会議講演、国内学術会議講演、招待講演、特別講演、教育講演、依頼論文、学術報告者、特許、競争的研究費の獲得、学位(学士、修士、博士)研究・論文指導、民間企業研究指導、国家及び地方公務員・留学生への教育・研究指導、新聞・雑誌・報道・テレビ・映画等マスメディアへの出演・執筆依頼、教材など、公開された印刷物などは全部で1,500件を超える。
 学術論文の内、査読付きが238件、その内訳は、英文90件、邦文148件、国際会議論文63件、論文の国際的価値として総インパクトファクター 250以上、引用件数は国内外にておそらく5,000論文前後に至る。査読付きの学術論文は投稿雑誌の編集委員会にて、必ず2名以上の専門家による審査が入り、オリジナリティがあるかどうか、原著論文として適切かどうかなど、厳しく審査される。その結果、reject(却下)か、accept(許可)か、または修正すれば許可する(acceptable、条件付許可)の3つのどれかの判定が著者に送られてくる。したがって、公開された査読付き論文はすべてオリジナリティがある。主な研究成果をPDFに示しました。

 学生時代に立てた目標は30歳までに自分の道を見つけることでした。そこで、猛烈に仕事をして、30歳時までに「骨髄δ-アミノレブリン酸(ALA)脱水酵素インヒビターの発見」、「鉛中毒時の酵素異常の発見とその機序の解明」、そして「晩発性皮膚ポルフィリン症の酵素異常の発見」といった世界で初めてを3つ経験しました。いずれも日々の実験の積み重ねから見出した、まったくの偶然の発見でしたが、これが研究者としての自信につながり、何の抵抗もなく、自然と研究者の道を歩むこととなりました。

 新しき事を見出すということはonly oneになること、number oneではなくonly one にこだわりました。その一つとして、私が経験したのは最も基本的な測定(分析)技術の開発でした。他の研究者が開発した測定法を基本に戻って再検討するとうまくいかない事があることを見出しました。それは、鉛中毒の生体影響の指標として用いられてきたALA脱水酵素活性の測定法は1955年に開発されて以来、現代まで何の疑問・疑いを持たず世界中の研究者によって利用されてきました。その方法を基本に戻って測定し直すと新たな問題が沢山出てきた。そこで、測定法を新たに開発し、実験するとこれまでの定説と異なった新たな発見が次々と成された。これについては、「生化学若い研究者の会」で特別講演を行い、若手研究者の興味を誘いました。

 私は、事を成すにはまず基本に戻って十分に準備をすることが大切で、これが新たな発見に繋がることが多いことを経験しました。気が付けば1,500件以上の業績を出したことは感慨深いことです。21歳時からエネルギーを教育・研究と論文執筆に最大限投入し、1日12時間以上様々な学びの好奇心を持って基礎から応用研究を行なってきました。76歳となった今でも、この「健康・栄養資料室」に論文を書き続けています。学ぶことに最大の価値を置き、新たなonly oneのモノ創りを生涯の仕事として位置付けた自分の人生であり、社会への貢献です。

 また、社会貢献の立ち場から、これまでに学術研究会と学会の創設と運営、学術雑誌の創設と運営、大学新学部の立ち上げ・運営・教育、医療系専門学校の改革・運営・教育、難病の患者会の創設と運営、日本で初めての指定難病制度の立ち上げに関わることができたことは望外の喜びです。(近藤雅雄、2025年7月18日)

PDF:研究の道しるべ、公開された主な研究成果

研究回想:私の人生を懸けたポルフィリン症研究への思い

概 要
 人生にて、興味を持ち続けた研究テーマは、①生物の根源物質ポルフィリン・ヘム生合成の調節機序に関する研究、②ライフステージにおける栄養素の研究、③環境因子の生体影響およびその指標作成に関する研究、④再生医学に関する研究、そして⑤自然・地球環境に関する研究の5テーマでした。すなわち、人間が生きて行く上で不可欠な「保健」,「医療」,「環境」に関する研究を常に注目してきました。
 このうち、①のポルフィリン代謝(ヘム生合成)の調節機序に関する研究を始めたのは学生時代の21歳、1970年です。当時、ポルフィリン症は散発的な症例報告はあるものの、臨床統計や疫学データがなく、診断のための検査法、診断基準、発症機序、治療法も未確立でした。しかも希少疾患ということで、医療従事者の間でもほとんど知られていない病気でした。
 1980年代、ポルフィリン症の発症および再発の防止、患者のQOL向上と健康寿命の延伸を期して、患者の会「全国ポルフィリン代謝異常症患者の会(さくら友の会)」や学術研究組織「ポルフィリン研究会」を創設しました。研究会では、ポルフィリンに関する研究成果を学術研究論文誌「ポルフィリン,Porphyrins」(国会図書館寄贈)を季刊定期発行雑誌として刊行しました。
 そして、本格的に診断法の開発、発症機序解明などの一連の研究活動を行い、1990年代から2000年までには各病型の発症機序、鑑別確定診断法、診断基準、臨床統計などの研究をほぼ完成させました。
 そして、2013年には患者会協力のもと、急性ポルフィリン症治療薬の未承認薬「ヘミン製剤」の認可を得、保険適用となり、急性ポルフィリン症の治療の道が広がりました。さらに、2015年、指定難病制度が法律として新たに立ち上がると同時に、ポルフィリン症が指定難病として承認されました。厚生労働省元職員として嬉しく思うと同時にポルフィリン症に対する思いを叶えました。
 ここでは、「ポルフィリン症研究への思い」として以下のPDFにまとめました。(近藤雅雄、2025年5月20日掲載)

PDF:ポ症研究への思い:概要

言葉はなかったが癒された。私は忘れない「リヴの物語」

 ロングコートチワワ犬(雄、「国際公認血統証明書」)生後2か月が家族となり、息子がリヴと命名した。しかし、12歳10カ月、近くの動物病院にてその小さないのちが消えた。
 悲しみ癒えぬ間にリヴの物語を執筆した。この物語は、日常生活の中でのさまざまな場面での触れ合いによって、私たち家族にたくさんのこころの安らぎと楽しさ、癒し、励まし、笑い、幸せをプレゼントしてくれたことに感謝し、短い生涯を写真と文章で追憶した47ページにわたる犬の物語。

 リヴは散歩や車に乗るのが怖く、1日中家の中にいた。外に出しても、車に乗せても体を震わせて怖がり、すぐに帰る。家の中では走り回り、いつもそばにいて、楽しませてくれた。 リヴとの思い出から、改めていのちの大切さと生きることの大切さ、そして感謝するこころを学ぶ。物語を作成中に、リヴの写真と病歴から、これまでに実に多くのからだとこころのサインを家族に送っていたことに気づく。そして、さまざまなサインに気付かなかったことを悔やむ。  また、犬の死因を究明することは、私たち人間においてもいのちとは、救急医療とは、について考える機会となった。それは、本来まだ生きたであろういのちを救うことができなかったことに対する自分への憤りであった。しかし、そこから「いのちを大切にするこころ、生きるこころ、他者を思いやるこころ」といった、人間としての「こころ」の基本を学ぶ。そして、「健康と病気」について考える良い機会が与えられる。生き物は病気になる時には必ず、何らかのサインを心身から出していることを見逃さないようにし、早め早めに対応することが大切だ。とくに言葉がない動物への日頃の感謝を忘れないことである。

 リヴの死から学んだことは多い。今後残された人生にプラスになるよう、前向きに歩み続けよう。この地球に棲むすべての生き物は、いずれは死を迎える。それが早いか遅いかではなく、いかに生きたかどうかが大切だ。たとえ、短いいのちであっても、一生懸命生きれば、それでよい。家族として、共に歩んだのだ。
 私はこの物語を作成してから、日々を懐かしく、回想している。(近藤雅雄、2025年5月1日掲載)

東京都市大学人間科学部の平成26年度入学式父母挨拶

 今日は孫が通う中学校の入学式です。
 漸く暖かくなり、桜満開で、まさに入学式には良い天候が続きます。そこで、これまでの入学式の挨拶の中で、忘れられない祝辞は多くありますが、その中から筆者の大学勤務の最期となった平成26年度の東京都市大学の入学式で人間科学部の父母への挨拶(以下のPDF参照)をあげました。
 学部長として満期の6年間、学部の運営・教育・研究業務を行い、中でも学部の改革として新学科及び大学院修士課程の設置構想案、さらに大学の組織・構造改革の提案など、いろいろな改革に向けた活動を行ない、大学及び法人組織への働きがけしたのを覚えています。
 それ以外に、社会的貢献として、難病患者の市民権を得る行動、難病制度の法改正を目指して国会議員及び厚生労働省の要職への陳情や面接、そして議員連盟を作って難病の現状を広く紹介すると同時に全国署名活動を行い60万人以上の署名を集め、厚生労働大臣に大臣室にて手渡したこと。その結果、新たな指定難病制度の法制化を実現することできたことは、大きな成果として、心の中に深く刻まれております。大変忙しい定年前の最後の年でしたが、大学を軸としたこれらの活動が大変充実していたことは幸せでした。(写真は都市大学近藤研究室にて。近藤雅雄、2025年4月8日掲載)
PDF:父母挨拶

「病気と治療1~7」のまとめ:病院と医師の質の向上を願う

 「病気と治療」の連載では望ましくない治療体験を7回に亘って掲載した。
 第1回目の原稿「病気と治療1.脊髄強打による圧迫骨折等脊髄損傷の治療経験」で、筆者は「多くの病院、医師は社会・人間に役立つ医療を提供しているが、一部の病院あるいは一部の医師に不適切な態度・技術‣知識・運営が見られることがある。患者は命を預ける弱者であり、病院、医師に従うしかない。病院、医師の社会に対する責任は重い。」と記載した。

 これまでに約500名の全国の病院医師と、共同研究者として論文や医学会での発表を行なったが、中には臨床研究にまったく関わらなかった名前だけの医師、患者の組織,血液や尿などの検体を採取しただけの医師等、研究への関わり方はさまざまであった。しかし、一緒に議論して研究した医師や共著論文を執筆した医師は「研究の質の向上は治療・教育の質の向上を担保する」、真に優秀な医師であった。
 医師には研究するこころを持っている医師とそうでない医師がいる。研究するこころを持った医師は向上心があり、その治療は優秀なのが多い。研究するこころを持っていない医師には患者に寄り添う医師と寄り添わない医師がいる。患者に寄り添う医師には仁愛のこころがある人が多い。問題は研究するこころを持たず、患者に寄り添わない医師が意外に多いことである。
 医学部に入学した医師の偏差値は高いが、「研究能力や仁愛のこころ」といった面では偏差値は無関係である。近年、研究できない(しない)医師があまりにも多くなった。医学部の医学教育では、医師としての道徳教育を重視してほしい。最高学府である大学医学部の附属病院の医師は同時に医学研究者でもあることを肝に銘ずるべきである。
 こころが病んでいる患者に対する病気の治療には多くの患者の物語があり、そのこころを少しずつ和らいでいくことによって患者の自然治癒力が高まり、病気の治療・回復に向かうことが多い。まず、患者と多く接することが第一に必要なことあって、病気の治療の基本である。
 この資料室で「病気と治療」を書いた理由は、病院医師の治療に対する意識の向上と自己点検・評価並びに必要な改善・改革を行い、病院および医師に望ましくない行為が起こらないような仕組みを作ってほしいという思いからである。特に特定機能病院日本医療機能評価機構の認定を受けた病院では日常的な自己点検・評価と第三者による点検・評価が必要であると思う。以下に、医療従事者に求められる言葉(こころ)と態度を挙げた。

医療従事者に求められる言葉と態度、12の習慣(近藤)

1.医療は経営に重きを置くのではなく、患者に寄り添った優れた治療を優先する
2.保健・医療・福祉の基本は布施行であり、高い志と知・技・心・態が求められる。
3.敬愛の精神を持って、常に謙虚で自己を厳しく律する。言葉の使い方を大切にする。
4.医療従事者、とくに医師の言葉は患者の免疫力・治癒力、さらに生死に大きく影響する。
5.成功者は自分のためではなく、患者のためになることを第一に考える(他者理解)。
6.患者に「治る」「治してあげる」という断定的な言葉を言ってはいけない。治るのは患者の治癒力による。
7.患者に寄り添い、患者の身体に聴診器や手を当て、病気の全体を総合的に判断する。
8.患者に嘘を言ってはいけない。知ったかぶりをしない。わからないことはその場で調べる。
9.患者に治療を行う前には必ず説明し、同意を得るのが基本。また、EBMを順守するのが基本。
10.症例から学ばぬ者は過ちを繰り返す。
11.研究の質向上は治療・教育の質の向上を担保する。
12.臨床研究の課題は身近に多く存在する。常に「研究するこころ」と「患者に感謝するこころ」を持つことを忘れない。
(近藤雅雄、2025年4月6日掲載)

病気と治療7.肺炎で大学病院に入院した時の治療経験

 75歳時(2025年1月6日)、強度の息切れを自覚し、自宅でパルスオキシメータを使って酸素飽和度を測定したところ87%(90%以下は呼吸不全)でした。そこで、貧血で通院している特定機能病院日本医療機能評価機構認定病院の某有名私立大学医学部附属病院(大学病院)の血液内科に行き、血液検査,胸部レントゲン・CT・心電図検査,採血100ml以上(検査及び使用内容不明)を行いました。しかし、検査報告はないまま「びまん性肺炎」と診断されました。その根拠は不明で、自分の身体に何が起こっているのかもわからないまま入院となりました。入院中に関わった医師の数は6名(内2人が研修医)でしたが、何故か呼吸器の医師はいませんでした。また、主治医、担当医が不明のままで、治療計画などのインフォームド・コンセントもありませんでした。
 入院4日目に第2回目の血液検査とレントゲン撮影をしましたが、その報告もありませんでした。また、入院以来ペニシリン系の抗菌剤を点滴投与していましたが、蕁麻疹,痒み,下痢などの副作用が強く、何度も看護師に伝えましたが、何の対応もありませんでした。翌日の入院5日目にいきなり看護師が来て、ペニシリン系からセファム系の抗菌剤に変わりましたが、やはり副作用が強く、看護師に相談しましたが、何の対応もありませんでした。呼吸器の病気でありながら、入院中に聴診器を当てる医師は皆無でした。
 入院6日目、看護師が突然来て、いきなり酸素ボンベの酸素流量を1.5→1.0に下げました。理由は、「医師の指示で酸素は少ない方が良い」と言っていました。その後、医師が来て、「肺炎の入院期間は通常1週間です」と言い、CRPは0.811(正常値<0.200)と正常上限の4倍高値で酸素飽和度93%(厚生労働省のガイドラインでは93%は酸素吸入が必要とある)でしたが、翌日退院を強いられました。
 退院当日、医師は来なかったので入院中の診断・治療経過は不明のままでした。帰路、体調は悪く、息苦しく、大学病院と医師への不信感が増すだけでした。

退院時に請求された入院診療費の疑惑

 退院時、入院診療費は218,230円でした。高額医療費が社会問題となっていますが、レセプト(医療費の明細書)から利用していない不明の項目が以下のように多数ありました。
1.利用不明の医薬品
①ピコスルファートNa内服薬(下剤),1回、②カロナール錠,3回、③デエビゴ錠(不眠症治療薬)、3回、④レルベア100エリプタ30吸入用1回。筆者は使用した医薬品類はすべて記録していましたが、その記述・記憶がありません。また、これら薬剤は肺炎治療と無関係です。

2.「医学管理等」の疑惑
 筆者は75歳後期高齢者であり、保険点数1割負担です。以下に不明の請求がありました。 ①退院時薬剤情報管理指導料1回90点,②退院時リハビリテーション指導料1回300点、③薬剤管理指導料2回,325点、③初期加算(リハビリテーション科),1回,245点でした。合計960点であり、金額からすると9600円です。この金額は病院の不正収入と言えます。
 これら「医学管理料等」については、①薬剤師は1回病室に来て薬を置いていっただけである。また、薬の処方にミスがあり、薬剤師として不適切であった。②医師がリハビリを勝手にオーダーしたが、リハビリの実態はない。

 以上から、今回経験した入院医療はチーム医療(医師、看護師、薬剤師、リハビリ)とはとても言えず、入院費用についても問題だらけでした。(近藤雅雄、2025年4月5日掲載)

「前へ」の詩:生きるために人生の目的をしっかり持つ

 1949年、団塊世代の最後に生まれ、戦後の急速な経済発展を経験し、小・中・高、大学時代、そして社会人として、仕事と仲間と環境に恵まれ生きてきた。平和な時代であった。
 時代が変わったのは2020年の「パンデミック」、そして、2022年の「ロシアによるウクライナ侵攻」、たった数年間で平和であった時代が大きく変わろうとしていた。
 古希を過ぎ75歳、終の人生を迎えるにあたって、過去の多くの出来事を記録し、後世に遺すことは、次代に生きる人に役立つかもしれない。また、生きるヒントになるかもしれない。しかし、「パンデミックと戦争」そして「ITやAIの急速な進展」による世界への影響、そして日本では「南海トラフ首都直下地震富士山の噴火など」の災害予測と「台湾有事」「関税問題」などと時代は逆行し、次代がどのようになるか想像がつかない方向へと突入している。

 人は誰にでも死は訪れる。死を考えた時、大切な言葉を一つ挙げるならば、それは「前へ」であった。死に行く者も、生きていればさまざまな喜怒哀楽、ストレスが日々変化して訪れる。それをうまくコントロールし、「前へ」突進む努力をする。そのためにも人生の目的を持って努力する。そうすれば、新しい景色を見ることができるであろう。そして、その景色が人類・人間社会にとって本当に幸せなものであるかもしれない。

 人間は、前向きで、素直に社会に貢献する謙虚な姿勢を持ち続けることが大切だ。それを行動に移し、新たな道を拓き、家族と共に生きて行く。そして、「1日でも長く健康で、おおらかに前へ生きる」、が最も基本的で豊かな人生といえる。そこに「感謝する人がいて、そして、感謝される」そういう人生は真に幸せである。
 添付したPDFに「人類と地球の世界平和に向かって「前へ」踏み出そう」という詩を掲載しましたので参照して下さい。 (近藤雅雄、2025年4月4日掲載)
PDF:前へ生きる{詩」

病気と治療6.大学病院整形外科での左膝痛の診断と治療

 70歳時、メニエール病特定機能病院日本医療機能評価機構認定病院の某有名私立大学医学部附属病院(大学病院)に入院した時に、医師は「有酸素運動をすると良い」と言いました。そこで、退院後、毎日健康に気を遣うと共にスクワット100回、腕立て伏せ100回、ジョギング3kmを日課として習慣化しました。数か月間は順調でしたが、ある日突然に正座ができない、左足親指の激痛、走ることができない、飛び跳ねることができないなどの症状がでました。
 71歳時(2020年12月21日)、左膝痛で大学病院の整形外科を受診しました。外来にて問診後、若手医師から左膝関節部のレントゲンを2枚撮るよう指示されたので、レントゲン室に行き撮影しました。外来診療室に戻りましたが、医師はレントゲン写真については何も言わず、見せてもくれないし、説明もありませんでした。診察の結果は「インソール(運動靴の中敷き)で治ります」と非科学的なことを言い、続けて、「ここ(診療室)で足の計測をするからと購入しませんか」と言いました。約1万円という。まるでインソール会社から派遣された営業マンそのものでした。
 私は勿論治る筈がないと確信し、断りました。そしたら、医師は「診察は終わりです」と信じられない言葉を言いました。ここは病院なのか?しかも大学病院なのか?幕末の福井藩医橋本左内(綱紀)の「啓発録」五訓にある「志を立つ」「学を勉む」を学んでほしいと思いつつ、医師のレベルの低さに驚きながら診療室を後にしました。
 大学病院の整形外科は非常に忙しい、外来担当の医師は出来るだけ患者の数を減らしたいと願う。あるいは小遣いが欲しいのでしょうか。また、病院経営者などの運営側は利益と権力を得たいと願う。そこには患者のこころを診ないと言ったむなしさだけがありました。(近藤雅雄、2025年4月4日掲載)

病気と治療5.大学病院でメニエール病の診断と治療経験

 70歳時、2019年11月23日、昼寝から目を覚ますと、左耳が聞こえなかった。突発性難聴か?しかし、起き上がると浮動感と激しい高音性耳鳴り、耳閉塞感、吐き気、熱感などの症状がありました。そこで、2年前に受診した特定機能病院日本医療機能評価機構認定病院の某有名私立大学医学部附属病院(大学病院)の耳鼻科に電話しました。耳鼻科の医師から「急ぐ必要はないので2日後に受診するように」と指示され、今度は大丈夫であろうと思い受診することに決めました。
 2日後、耳鼻咽喉科外来を受診。2年前に耳鳴で世話になった医師の名前はなかった。大学病院では役職のない医師の入れ替えが結構早い。初めて見る外来医師の指導で型通り、重心動揺計、耳音響放射検査、標準純音聴力検査、めまいの検査、血液および尿検査を受けました。血液及び尿検査はすべて正常でした。聴覚は、左耳の低音部の難聴が指摘され蝸牛型メニエール病(急性低音障害型感音性難聴)と診断されました。内リンパ水腫(メニエール病)の治療薬が処方され、症状の改善が見られましたが、12月13日に左耳の難聴が再発したため、12月17日から入院して1週間ステロイド治療を受けました。しかし、残念ながら改善はみられず、退院しました。
 一方、入院中にさまざまな体験をしたがその一部を紹介します。
①入院した病室のベッドに主治医、担当医他4名(合計6名)の名前が書かれていたが、病室に来た医師はいなかった。
②医師の紹介が耳鼻咽喉科のホームページにあったが、担当医の名前はなかった。
③看護師が医師や病院の悪口を頻繁に言っているのが気になった。
④入院中胸痛があり、看護師に伝えたが何の対応もなく、恐怖感を覚えた。
⑤2種類の薬物を、別々に点滴していたが、看護師は時間がないといい、2種類の薬物を同時点滴しようとした。私は薬物動態に影響が出るかもしれないと言い、断った。
⑥隣の診療椅子で、中年の男性患者が若手の女医に「何とか助けてください」と懇願していたが、診察が終わると女医は無表情のまま無言で立ち去った。
‥‥‥など、残念なことばかりでした。大学は医学教育、医師の再教育、病院医療のあり方、チーム医療などについて自己点検・評価する必要性があるのではないか。(近藤雅雄、2025年4月3日掲載)

病気と治療4.大学病院耳鼻科による耳鳴の診察と治療

 64歳時(2017年12月18日)、大学の講義中に右耳でメリメリ、パチパチといった金属音のような耳鳴が発生(線香花火のよう)したので、地域の耳鼻科開業医3施設を受診しました。何処も同じ検査をして、治りませんでした。そして言うことも同じで、「耳鳴と付き合っていくしかない」でした。そこで、特定機能病院日本医療機能評価機構認定病院の某有名私立大学医学部附属病院(大学病院)耳鼻科を受診しました。
 MRI検査を行い、外来医師より「右椎骨動脈狭窄、蝸牛神経圧迫症、右耳鳴金属音」などと診断されました。担当医は「とくに治療法と言うものはないが、特効薬がある」と矛盾した事を言いましたが、“特効薬”に興味を持ちました。しかし、処方された薬はてんかん治療薬に良く用いられる「テグレトール」でした。勿論、効果はありませんでした。それ以降は、この医師がいる病院では治療を期待することはできないと判断し、受診するのを止めました。現代の最先端医療では耳鳴りを治すことができない。だから風邪と同じく、市販薬がドラッグストアに沢山並んでいる。
 耳鳴解消の市販薬としてはナリピット錠、パニオンコーワ錠、アリナミンEXプラス、ナリピタン、当帰芍薬散などを購入して試しましたが、どれも効果はありませんでした。当帰芍薬散ナリピット錠などはよくテレビで宣伝していますが、人によって効果は様々であり、万人に効くというわけではありません。
 現在は、右耳で放電現象的な激しい金属的耳鳴りが発生し、約30秒ごとに7秒前後パチパチと24時間鳴り続けていますが原因は不明です。そして両耳で通常の唸るような耳鳴りが24時間起こっています。 (近藤雅雄、2025年4月2日掲載)

難治性疾患(難病)患者からの学び~難病制度改革と医療法

難病制度改革と医療法

 厚生労働省の職員(研究職)であった筆者は、厚生労働科学研究として37年間、先天異常(遺伝病)、各種難病や中毒の発症機序や診断・治療法の開発等の研究を行ない、患者の立場に立った研究・教育活動を普及してきた。
 しかし、これら難病については、いまだに医師および行政は正しい知識を得ていないのが現状だった。その結果、誤診による禁忌薬の投与などの誤った治療と十分な心身のケアーが得られず、毎年沢山の若い「いのち」を失ってきた。患者にとっては根治療法が開発されない限りいつも時間がない。限られたいのちの時間だけが過ぎていった。
 ヒトは遺伝子の異常を10個以上持って生まれてくると言われている。しかし、ほとんどの人が何の自覚症状もなく健康である。ところが、たった一つの遺伝子の異常が病気となって生まれてくる人もいる。これを先天異常と言うが、健常者と同じくこの世に誕生した大切な「いのち」だ。人間社会において、いのちを大切にするこころは人としての基本である。
 健康の反対が病気だが、これまで健康であった人が、病気になった時に、初めて健康のありがたさを思い、誰もが二度と病気に罹りたくないと思うものである。そしてそれが実現できる。ところが、病気を持って生まれてきた人はどうだろうか。患者は健康への願望、生きることへの願望、仕事への願望、いのちへの思いが、健康な人以上に強く、また、今日の人間社会に欠けている他者を理解し、思い遣るこころ、家族・友人を大切にするこころ、いのちの尊さと感謝の気持ちを強く持ち合わせている。健常者に足りないものを多く持ち合わせている。私たちは難病患者から人間として実に多くのことを学んできた。そして、人は必ず死ぬのだ。これからは、これまでに多くの難病患者から学んだことを基に、人とのコミュニケーションの大切さ、生きる力を表現していきたい。

わが国の指定難病制度

 昭和47年以来、綿々と続いた難病制度には認定方法や治療研究制度など、多くの問題を抱えていた。そこで、筆者らはこの制度を根本から変えるべく署名活動、国会議員への陳情活動(下記のPDF参照)、衆参両議員からなる議員連盟の設立など平成9年から様々な活動を行った。
 その結果、平成26年5月23日に「難病医療法」が成立、その後、「指定難病」が法制化した。
 すなわち、平成21年度、厚生労働省内で難病制度の見直しが行われ、平成26年8月28日に56疾病から110疾病が「指定難病」として追加・決定した。さらに、平成27年3月9日、厚生科学審議会疾病対策部会指定難病検討委員会は新たに44疾患を追加し、総計306疾患が5月中に正式承認・告示がなされ、7月から重症患者に対しての医療費助成が開始された。
 この「指定難病」制度法制化の契機となったのが、筆者を代表とした「ポルフィリン症患者会(さくら友の会)」の活動である。平成20年11月30日に難病認定の署名活動を開始し、全国から集めた総数は600,515筆に至った。この貴重な署名を家内と二人ですべてチェック・整理し、タクシーで厚生労働省へ運んだ。そして長妻昭元厚生労働大臣から始まって代々5名の元大臣に手渡した。私がこの活動に取り組んだ最大の理由は、国内の多くの「難病患者の命を守るための仕組み(法律)を作っておかなければならない」といった使命感だけであった。
 平成21年に民主党政権に移行してから漸く“難病対策の現状と課題について”の本格的な議論が始まった。平成25年に自民党政権に移行してからは、「難病医療法」が5月に成立、平成27年度から施行することが決まり、厚生科学審議会疾病対策部会の「指定難病検討委員会」が中心となり、指定難病の各要件(①治療方法が確立していない、②長期の療養を必要とする、③患者数が人口の0.1%程度に達しない、④客観的な診断基準などが確立している)を満たすかどうかの検討が開始された。昭和47年から平成26年度の約42年間に56疾患が難病として認定されてきたが、平成27年度に約300疾患に拡大し、対象患者をこれ迄の78万人《この中には希少疾患から外れるパーキンソン病(患者数約10万9千人)や潰瘍性大腸炎(患者数約14万4千人)なども含まれている》から150万人に増やし、患者数は人口の0.15%にあたる18万人未満を目安に決められた。
 これら活動の意義として、ポルフィリン症は極めて希な疾病であり、1920年に第1例が報告されてから今日まで約1000例の報告しかないという超希少な疾患であり、誤診や事故が後を絶たなかった。これが難病指定されれば、医師がこの病気を知る良い機会となり、誤診や事故を著しく減らすことにも繋がる。さらに、治療研究が加速することが期待される。そして、何よりも、これまではわけのわからない病気として無視されていたのが、「国が指定した難病」ということで、行政・社会での対応も一変し、真摯に注視されることが期待された。
 指定難病の法制化に関しては厚生労働省職員及び民主党、自民党の国会議員等、多くの要人と面会し、法制化に懸命に取り組んでくれた。ここに深謝する。(近藤雅雄、2025年3月4日掲載、4月4日追記)
PDF:難病制度法制化

病気と治療3.喘息のステロイド治療ミスで意識不明に

 46歳時(1996年7月24日)、過労による喘息発作が発症したので、知り合いの都立病院肝臓内科の医師に電話し、呼吸器の専門医の紹介をお願いしました。呼吸器内科の若手女医を紹介され、外来を受診、ステロイド剤投与による治療が行われました。しかし、投与計画の医療過誤により自宅にて急性発作、意識が消えた。そして、私は救急車で特定機能病院日本医療機能評価機構認定病院の某有名私立大学医学部附属病院(大学病院)の救急外来に搬送されました。そのまま呼吸器病棟に入院となり、16日間治療を受け命拾いをしました。退院後、都立病院呼吸器内科の女医には報告しても過去のことであり、この医師は後ろを振り向くような人ではなく、前しか見ない人であろうと思い、伝えませんでした。

≪参考≫
 ステロイド薬の正式名称は「副腎皮質ステロイド薬」といい、副腎皮質から内分泌されるステロイドホルモンを化学合成した医薬品(合成薬)です。
 副腎皮質は生命維持に不可欠な臓器で左右の腎臓の上に一つずつ、計2個ある。この副腎皮質から糖質コルチコイド、電解質コルチコイド、男性ホルモンが内分泌される。臨床でよく使われるのは炎症やアレルギー、ストレスを抑える上でもっとも強力な作用を持つ糖質コルチコイド(コルチゾール)です。医薬品ではプレドニゾロンやデキサタゾンなど作用の違いなどによって20種類以上が合成されています。正しく使えばよい薬ですが、長期間の投与や投与量を間違えると、さまざまな副作用(高血圧、糖尿病、骨粗鬆症、胃潰瘍、感染症など)や命の危険が生じることが知られています。 (近藤雅雄、2025年4月1日掲載)

病気と治療2.注射による医療過誤で風邪から敗血症に

 32歳時(1982年2月26日)、職場で40℃を超える高熱を出し、職場内の診療所で「インフルエンザの疑いがある」と言われ、自家用車で首都高速を突っ走り、帰宅した。その足で、近所の開業医に受診したところ、「風邪ですね」と言い、解熱剤を左腕に注射し、絆創膏(1982年時は滅菌されてない)を貼った。
 帰宅して、しばらくして、針を刺した部分が発赤・腫れてきた。放置するもどんどん広がったので再び受診すると、医師は腫れている部分にシップを貼り、「大丈夫だから帰ってもよい」と言った。帰宅して今度は貼った部分が炎症(発赤、腫脹、疼痛、高熱、機能障害)を起こし、さらに炎症部位に氷枕を当てるとすぐ溶け、湯気を出す。炎症の勢いが早く、注射したところを中心として拡散し、数日間で左腕が太ももの様にパンパンに張れ、鎖骨を叩くと痛みが出たので生命の危険を自覚した。菌が心臓に入ったら終わりだ。しばらくすると、突然、早朝に開業医の院長と息子の2人が自宅に来た。診察し、院長は診ているだけで、息子が入院を勧めた。しかし、入院の手配はなかった。
 そこで、直ちに知人がいる都立病院に電話し、緊急入院した。しかし、手遅れで敗血症となり生死を彷徨った。主治医はさまざまな抗菌剤を投与し、漸く炎症が止まったが約2か月間感染症病棟に入院した。途中意識が低下したが、明らかに開業医の医療過誤による感染症であった。その後、絆創膏からアシネトバクター属菌(グラム陰性菌)が発見され、これが原因菌ではないかと主治医は説明した。診断名は「蜂窩織炎」であった。左腕に5㎝位の自然に破裂した傷跡が痛々しく残っている。退院間近になって、開業医が病室に突然フラーっと現れ、何も言わず手を握っただけであった。謝罪と賠償はなかった。小学校の校医をしていたことから告訴はしなかった。
 その後、約40年振りに新型コロナウイルスワクチン接種のため、開業医(息子の代に変わった)に行ったが、当時のことを「元々感染症があったのではないか」と述懐していた。親が大変な過ちを犯していながら、反省すらない息子に開いた口が塞がらなかった。
 一部の医者と政治家は自分の過ちを認めないことで共通している。どちらも国民のいのちに関わる大切な役職であるのに。(近藤雅雄、2025年3月31日掲載)

病気と治療1.脊髄強打による圧迫骨折等脊髄損傷の治療経験

「近藤雅雄の健康・栄養資料室」の新シリーズ「病気と治療」では、筆者が病院に受診あるいは入院した時の治療経験を7回、紹介します。掲載理由は以下の通りです。
 多くの病院、医師は社会に役立つ医療を行っていますが、一部の病院あるいは一部の医師に不適切な態度・技術‣知識・運営が見られることがあります。患者は命を預ける弱者であり、病院、医師に従うしかありません。予約時間が1時間以上過ぎても誰も文句を直接いう患者はいません。病院、医師の社会に対する責任は重いのです。
 新シリーズ「病気と治療」では病院や医師の責めを問うものではなく、病院職員の治療に対する意識の向上と自己点検・評価並びに必要な改善・改革を行い、病院および医師に不適切な行為が起こらないような仕組みの作成を願うものです。

病気と治療1.脊髄強打による圧迫骨折等脊髄損傷の治療経験

 今から14年前の61歳時(2011年5月29日)、日曜日で台風の中、勤務する東京都市大学の体育館にて卓球の関東リーグ戦が開催され、女子部の監督として出席した。午前が終わり休憩中に、研究室に行き、仕事を終え、体育館に戻る時に、傘をさしたままコンクリート階段で滑って落下した。背中を強打し、意識混濁。しばらく仰向けに雨に打たれた後、意識を取り戻し、体育館に戻り応援を続けた。1時間位して背中が猛烈に痛み出し、そこへ漸く卓球部の顧問が来たので、交代し、タクシーで帰宅しました。
 不慮の事故から1週間経っても痛みが消えなかったので、K医療センターの整形外科を受診しました。CT検査にて、医師から「右第1腰椎横突起骨折、右第5腰椎神経根症、右第1仙骨圧迫骨折脊柱管狭窄症」と診断されました。当然何らかの治療をするものと思ったが、医師は「治療の方法がない」と言い、診察室を出された。シップ薬も処方しない。
 それから14年経ったが、中腰で作業したり、重たいものを持ったりすると未だに腰が痛む。(近藤雅雄、2025年3月31日掲載)

忘れてはいけない新型コロナウイルス感染とパンデミック

 2019年12月以降に中国武漢市で発生した新型コロナウイルスによる感染症が大流行、世界を震撼させた。世界保健機構(WHO)は新型コロナウイルスをCOVID-19と命名し、2020年3月11日、「新型コロナウイルスはパンデミックとみなすことができる」と宣言した。
 このパンデミックからクラスターという言葉が初めて使われた。集団感染に移行することから個人と個人の距離を十分に開ける政策、アクリル板で遮断する対策、喚起、アルコールによる手指の消毒、マスクの着用が当たり前となり、習慣化した。
 多様なイベント(スポーツやコンサートなど)では大声を出さない、マスクの着用、人数規制などさまざまな対策が施され、典型的なのが2021年の東京オリンピックである。無観客となり、これまでのオリンピックの景色を一変させた。
 このパンデミックの原因、推移、行政対応等は風化させることなく、次代に引き継いでいかないといけない。ここでは①新型コロナウイルス発生の疑義、②迷走する診断法と疫学、③迷走する治療法、④各国の感染対策と予防、⑤わが国の行政対応、⑥教育の現場と社会の混乱、⑦パンデミックの収束、⑧パンデミックその後、公衆衛生の重要性などについて記録した。以下のPDFを参照してください。(2025年3月20日掲載)
PDF:新型コロナウイルス

難病専門外来の経験:医師と患者との関係「10の習慣」

 平成27(2015)年、港区内の某クリニック内に日本で初めて指定難病「ポルフィリン症」の専門外来が開設されました。診療は、毎月第4金曜日に済生会江津総合病院名誉院長の堀江裕先生が行い、それを見学させて頂きました。
 筆者はこの難治性疾患について、厚生科学研究者として厚生省・厚生労働省にて1971年以来37年間、臨床統計、発症機序、診断・治療法の開発等の先駆的研究を行い、2006年までに国内患者の70%以上を確定診断し、患者のホローとケアーを行いました。
 今回、クリニックの許可を得て患者さんの診察を見学させていただきました。その時の経験をもとに、感想や思い、そして私見ですが患者さんと接する時の心構えを「10の習慣」として纏め、以下のPDFに示しました。
(近藤雅雄、2025年3月18日掲載)
PDF:専門外来と患者

学校法人の社会的責任と理事長・校長に求められる資質

 学校法人の理事長は学校の設置者であり、学校を管理し、学校の経費を負担する責任を負っています。理事長に求められるものは、最高責任者として相応しい社会的責任を遂行することです。
 一方で、教学の最高責任者は校長です。そこで、高等教育機関のさらなる発展・進化を期して理事長の資質及び学校経営、理事長と校長の役割などについて、①学校法人の社会的責任、②理事長の資質、③理事長と学校長の役割に分け、基本的私見を述べました。
 現役の専門学校校長を退職してから5年が経ちますが(現在75歳)、以下のPDFに書きましたので読んでください。(近藤雅雄、2025年3月17日掲載)
PDF:理事長に求められる資質

人を育てる 「高等教育機関のリーダーに求められる37の習慣」

 高等教育機関とは、初等中等教育の次の段階の教育課程を提供する教育機関の総称で、学校教育法に規定される大学、大学院、短期大学、高等専門学校及び専門学校などが該当します。筆者は大学の学部長及び専門学校の校長としてリーダーを経験しました。

 高等教育機関はグローバルな視点を持って次代の社会貢献に不可欠な人材を育てるよう教育・指導していく義務があります。これら人材育成の要となるのがリーダーの教育方針・姿勢・品性です。人材育成とは才知ある人物、社会に役に立ち貢献できる個人を育てることです。すなわち、コミュニケーション能力が高く、物事をうまく処理できる人材、適正に活用することで活性的な組織を構築することができる個人の育成を指します。これら要求に適う高い人間性を持った次代を担う人材を育成する事が教育の使命です。

 高等教育機関の役割は建学の精神に立脚し、社会・国家・地球、人類の未来・発展に貢献できる人材の育成を行うことが最も基本的な社会的責任です。そのために、志を持って入学する学生に学校・教育生活の最終到達点、総結集として学士力を育て、卒業後はしっかりと国内外の社会に貢献できるよう、教育・研究に最大限のエネルギーを費やし、教員と学生の双方で教えることへの誇りと教わることへの誇りを共有し合うことが大切です。

 筆者が36年間にわたる厚生省・厚生労働省での教育・研究・運営の経験を踏まえ、東京都市大学の人間科学部の開設および初代学部長として就任した時に作成した37の習慣を以下のPDFに示しました。(2025年3月16日)
PDF:人を育てる

人類の健康に貢献した元「国立公衆衛生院」の復活を願う

 元国立公衆衛生院は米国ロックフェラー財団の全額寄付によって建立され,昭和13(1938)年3月29日勅令第147号公衆衛生院管制の公布をもって厚生省の創立(1938年1月11日)に遅れること2か月余りの後に同省の直轄機関として設立されました。設立には野口英世が深く関与した記録があります。
 本院はわが国の公衆衛生の向上を期するため,国および地方公共団体などにおける衛生技術者の資質の向上を図るための養成訓練と公衆衛生に関する学理の応用の調査研究を司る教育・研究機関として設置されました。そして、わが国の保健・医療,福祉,環境の分野で多大な貢献をしてきました。
 平成7(1995)年、厚生省は「日本は近代国家として,公衆衛生の時代は終わった」とし,公衆衛生という言葉が省内から消えました。平成14(2002)年4月,旧厚生省は厚生労働省となり,試験研究機関の再編成によって64年という短い歴史を閉じました。
 今、世界は、新型感染症の到来、ロシアによる侵略戦争、地球温暖化など、安心安全な平和社会からどんどん遠ざかっているように見えます。このような時代にこそ、人類の健康に貢献する国立の公衆衛生院が必要とされているのではないでしょうか。先進国では国立の公衆衛生院は国家の中心的役割を果たしています。しかし、日本では残念ながら2002年に無くしてしまいました。
 日本の未来のために、元国立公衆衛生院の復活を期待したい。
(写真は元国立公衆衛生院、平成15(2003)年1月29日,筆者撮影)(2025年3月10日掲載)
PDF:元国立公衆衛生院

難病患者と大学病院医師:超稀少疾患研究の推進を望む

 難治性疾患の患者を有名私立大学病院に紹介し、入院した時、5~6人の医師たちにぜひ症例報告をして欲しい旨をお願いしたところ、一人の医師が「本症についてはすでに多くの報告があり、本症を発表してもその価値がない」と述べ、笑われたことを覚えている。多くの医師が同じ考えであろう。医師からすれば、日常の業務が忙しく、これまでに報告がない新しい発見などがあれば率先して公表するであろう。よほど新しい内容がなければ発表しないものだ。

 しかし、本症について調べたが、100万人に数人の発症といった極めて症例数が少ないことから、情報も少なく、十分な臨床統計もないことがわかった。したがって、疫学も勿論ない。本症のような超稀少疾患については症例が見つかれば、これまでに報告されていても、必ず論文として、誰でも検索して見られるように公表することを義務付ける必要があるのではないか。また、医療関係者は患者がいればぜひ国内外の医学会や研究会で報告し、症例報告として記録を残してほしいと願う。患者によって症状や治療の効果も異なるはず。その事実が大切なのである。

 医師や患者も情報を知りたがっている。大学病院の医師は「報告する価値がない」と言っていたが、それが医学の発展を妨げる原因ともなる。情報は多い方が良いのに決まっている。特に超稀少がんなどの難治性疾患においては患者数が少ないことが原因で治療研究が進まないことが深刻化しているのではないか。また、公表しないことは稀少疾患に対する治療上の不都合な真実も疑われかねない。(近藤雅雄、2025年3月8日掲載)